売れる味より、寄り添う味を選ぶ。佐藤酒造店が守っているのは、「飲みやすい辛さ」だった

佐藤酒造店が守っているのは、昔ながらのやり方そのものではない。 守ろうとしているのは、後味が軽く、ふくらみがあり、日常に自然と寄り添う「飲みやすい辛さ」だ。 その味を守るために、この蔵は設備を更新した。 それでも、全部は機械に任せなかった。 取材の日、佐藤さんはタンクの前で櫂を入れていた。 泡の動き、蓋の張り方、棒を伝ってくる感覚を見ながら、その日の発酵を少しずつ整えていく。 今は、華やかな香りや甘みのわかりやすいお酒のほうが、選ばれやすい傾向があるという。 それでも佐藤酒造店が選んでいるのは、そうしたわかりやすさとは少し違う味だ。 守りたい味のために、人と機械の境界を決め続ける。そのことが、タンクの前の静かな手つきから伝わってきた。

目次


この記事を読む前に

この蔵が基準にしているのは、製法ではなく味だった

佐藤酒造店の話を聞いていると、最初に見えてくるのは、製法ではなく味の基準だった。

父の代に、全国新酒鑑評会で金賞を受賞したことがある。全国の酒蔵がその年の新酒の出来を競う場で、特に高く評価されたお酒に与えられる賞だ。

その時に言われたのが、「さらに後味が軽く、ふくらみがあるお酒であれば、もっとよかった」という趣旨の評価だったという。それ以来、蔵では後味の軽さとふくらみをひとつの軸としてきた。

その軸を受け継ぎながら、今のお酒をつくっているのが佐藤さんだ。

埼玉で初めて女性杜氏となり、荻野吟子賞大賞も受賞している。けれど、肩書き以上に伝わってくるのは、どんなお酒を届けたいかだった。

佐藤さんが目指すのは、「喜怒哀楽に寄り添うお酒」だ。

嬉しい日や楽しい日には、その場の空気をさらに明るくし、会話や時間をより心地よく、記憶に残るものにしてくれる。

一方で、悲しい日や納得がいかない日、気持ちが張りつめている日には、心をやわらげ包み込むように、自分を整え直す時間に寄り添ってくれる。

特別なハレの日だけのためではなく、日常の食卓に自然に溶け込みながら、飲む前とは少しだけ違う景色を見せてくれること。

佐藤さんが大切にしているのは、そんな役割を果たすお酒である。

最初の一口の分かりやすさよりも、食事とともに二杯、三杯と無理なく杯が進むことを重く見る。

だからこそ、時代のトレンドである派手な甘さに寄せきるのではなく、ただ辛いだけでもない、「飲みやすい辛さ」を選び取っている。

櫂入れは、その味に近づくための手入れだった

取材の日、佐藤さんはタンクの前で櫂を入れていた。

櫂入れは、発酵中の醪を混ぜ、温度と米の状態を均す作業だという。

櫂入れ(かいいれ)作業の様子。
タンク内の醪(もろみ)の様子。醪は、原料(米・麹・水など)が酵母により発酵している、こす前の液体。

タンクは外側が冷えやすく、外と真ん中で温度差が出る。米は下に沈む。そこを混ぜ、沈んだ米を浮かせ、全体を均していく。
工程として見れば、それだけのことにも見える。

けれど、この蔵にとっては、それだけではなかった。

酵母は温度変化に弱い。

低すぎれば動きが鈍り、高すぎれば弱る。

特に佐藤酒造店のように、食中酒としての辛口を目指すなら、酵母が最後まできちんと働き続ける状態をつくることが極めて大事になる。甘さのわかりやすさではなく、飲みやすい辛さへ持っていくには、ただ発酵すればいいわけではない。

そのために行うのが、櫂入れだった。

発酵中の温度のムラを減らし、沈んだ米を浮かせ、酵母が無理なく働ける状態を保つ。佐藤さんがタンクの前で櫂を入れていたのは、その小さな手入れのためだった。

設備は更新した。それでも、人の手は残った

佐藤酒造店は、昔ながらの感覚だけで動いている蔵ではない。

2015年に蔵をリニューアルした際、発酵タンクはすべてサーマルタンクに変わった。以前のようにジャケットを巻き、ホースをつなぎ、重い作業を人力で行う必要はなくなった。タンクごとに温度設定ができ、自動でオンオフもしてくれる。夜中に見に来る回数も減ったという。

タンクごとに細かく温度を管理できるようになったことで、酵母に急な負担をかけにくくなった。守りたいお酒の質を、より安定してつくるための更新でもあった。

ただ、設備が整ったからといって、人の手が不要になったわけではない。

佐藤さんによれば、櫂入れをしなくても結果が大きく変わらないこともあるという。実際、櫂入れをしない蔵もあるらしい。

それでも、佐藤さんは今も手を入れる。

温度のムラをできるだけ減らし、米の沈み方や発酵の様子を見ながら、その日の状態を少しでも整えてやるためだ。

大きな差が出るとまでは言い切れなくても、少しでも求める味に近づける余地があるなら、その手間は残したい。そういうお酒づくりを、この蔵は選んでいた。

数字だけでは届かない。だから、見るし、触る

佐藤さんは、タンクの前で何を見ているのか。

液面の表情、プクプクとした発酵の力強さ、上に張る蓋の状態。

そして、上・中・下の細かい温度差。

分析データも細かく確認する。

酸やアミノ酸の数値を共有し、かつては杜氏の頭の中にしかなかったタイミングを、言葉や数字にしてきた。

醪に蓋ができている。

しかし、数字だけでは届かない領域がある。朝、昼、夜で醪の顔は変わる。酵母によって泡の立ち方も違い、タンクに入れた日数が同じでも様子が異なる。櫂を入れると、沈んでいた米が混ざり合う感覚が、棒を通して直接手に伝わってくる。液面で舞った米が落ちる速さ、振動の戻り方。佐藤さんはその感触を頼りに、櫂を切り上げる頃合いを探っている。

分析でわかるものは、データで取る。

それでも残る微差は、人が五感で埋める。両方を使うことで、守りたい味の輪郭が少しずつはっきりしていく。

一本道だから、小さな手入れが重くなる

お酒づくりは一本道だと、佐藤さんは話していた。

たとえば洗米の段階で水を吸わせすぎ、べちゃっとした米になってしまうと、その後の工程が一気に難しくなる。小さな蔵では、大手のように別のタンクと混ぜて整えることも簡単ではない。この一本を、どう最後まで持っていくか。その途中で大きな修正は効きにくい。

だから、朝見て、昼見て、夜も見る。

だから、分析を見る。

だから、櫂入れの回数も、その日の酵母の元気や温度を見ながら変える。

後味の軽さとふくらみを守りながら、日常に寄り添う飲みやすい辛さへ持っていく。

一本道の先にある理想の味を見ながら、今日の一回を決める。

この蔵のお酒づくりは、そういう時間の積み重ねでできている。

昔をなぞるだけでは、守れないものがあった

取材の後半では、杜氏の代替わりの話にもなった。

佐藤さんが杜氏になった当初は、まず失敗しないように、全国新酒鑑評会で金賞を受賞した杜氏のやり方をなぞっていたという。けれど、同じようにやっているつもりでも、同じ味にはならなかった。

それは個人の腕だけの話ではなかった。東日本大震災の影響もあり、蔵は改修され、設備も変わった。そのタイミングで酒造りの前提そのものが大きく変わり、体制も含めてすべてを一新していたからだ。

造り方が変わったことで、前の方が良かったと言われることもあった。悔しさもあったという。

一方で、今の方が良くなったという声も増えていった。直売店や各地のイベントでお客様の反応を聞く中で、変わったことが必ずしも悪いことではないと見えてきた。

そこから佐藤さんは、お客様の声を聞きながら、もっと試行錯誤したくなったという。蔵が守りたい酒質と、お客様が本当に良いと感じる味の接点を探し始めた、ということだ。

昔のやり方をそのまま繰り返すだけでは、今の蔵で守りたい味に届かない。

その現実を受け止めたところから、今のお酒づくりは始まっている。

守っているのは、やり方ではなく味だった

蔵には機械がある。

温度は測れる。

自動で制御もできる。

分析も共有できる。

それでも、朝の蔵には人が立つ。

泡の動きを見て、蓋を見て、櫂を入れ、今日はここまでにすると決める。

後味が軽く、ふくらみがあること。

派手ではなく、食卓にすっと置けること。

甘さのわかりやすさではなく、二杯目、三杯目にも自然につながること。

喜怒哀楽のそばに、無理なく置いておけること。

この蔵が守ろうとしているのは、そういう味だった。

取材の日、タンクの前で櫂を入れる佐藤さんの手つきは、とても静かだった。

その静かな手入れの積み重ねの先に、この蔵が残したいお酒の輪郭がある。

この一コマから見える判断軸まとめ

1. 一貫性・信念

今は派手で甘いお酒のほうが売れやすい。それでも佐藤酒造店は、日常に寄り添うお酒という役割を崩さず、飲みやすい辛さを守っている。売れやすさより、何のためのお酒かを優先している。

2. 品質・完成度

ただ辛口であればいいのではなく、後味が軽く、ふくらみがあり、食中で自然に進むことまで求めている。櫂入れや温度管理、分析の共有は、その繊細な完成度に近づくためのものとして機能している。

3. 信頼・関係性

お客様の声を見ながらも、ただ迎合しているわけではない。蔵として守りたい酒質と、お客様が良いと感じる味の接点を探している。そこに、飲み手に対する誠実さがある。

4. 変化・成長

前の杜氏と同じにはならない現実を受け止め、蔵や設備が変わった中で、今の条件でよりよいお酒へ近づけていく姿勢が見える。伝統を固定するのではなく、守るべき本質のために更新している点が重要だ。